第1話クロエ荘のお正月

 大文字山にうっすらと雪が積もっていた。もう昼過ぎだからほとんど溶けてしまったのだろう。木の生えていない大の字の部分の三角形だけが白くなっている。 

(塩むすびみたい……) 

 と、黒恵(くろえ)は思った。足指から凍える寒さでなければ、いつまでも眺めていたい光景だ。ダウンコートの襟を閉じる。今頃、京都の有名な神社は初詣の人たちで賑わっているのだろうが、クロエ荘の周りは人の気配がない。時が止まっているかのように静かだった。 

 ポストを空けてみるが入っているのは新聞だけで、年賀状はなかった。家に戻る前に、黒恵は一緒に新年を迎えたクロエ荘を眺め、心の中で挨拶をした。シェアハウス・クロエ荘。ここが黒恵の職場だ。祖母から受け継いだこの家に住み込んで、シェアハウスの管理人を務めている。 

 クロエ荘は瓦屋根に守られたどっしりとした日本家屋だ。築百年の貫禄は、ただそこにあるだけで、あたりの空気を塗り替える。クロエ荘を眺めていると、今が令和の世であることも、同級生たちが都会で忙しく働いたり、子育てに忙しかったり、恋愛で悩んだり、おしゃれを楽しんだりしていることも、すべて忘れさせてくれる。黒恵にとって、理想の場所だ。 

 静寂を破って、ガラガラとスーツケースを転がす音が近づいてくる。遠くからでも表情がわかるくっきりした目鼻立ちで、都会的なファッションに身を包み、ハイヒールを鳴らして歩いてくるのは、クロエ荘住人の光世(みつよ)だ。彼女は女手ひとつで娘を育て上げたシングルマザーだ。娘が一人暮らしを始めたのを機に、今まで住んでいた広いマンションや大きな家具を売り払い、身軽になってクロエ荘に入居した。年末年始は大学生になった娘とアジアのリゾートで過ごすと言っていたけれど、もう帰ってきたのだ。 

「黒恵さん、まだ15時だけど、なんか食べさせてくれない? 乗り継ぎで食べ損ねちゃって」 

 いつもはエネルギーに溢れている光世だが、何だか覇気がない。 

「ちょうど暇してたからいいですよ。娘さんとはもう解散したんですか?」 

「バイトだって。タフすぎる」 

「光世さんはおつかれですね」 

「そうなの。歩き疲れたなあ。あと、香辛料のせいか、お腹が調子悪くて」 

 じゃあ、消化にいいご飯がいいかなあ……などと考えながら、黒恵は光世の荷物を持つのを手伝って、一緒にクロエ荘の中に入る。 

 クロエ荘では家賃とは別料金で、まかない薬膳を提供している。まかないが必要なときは二時間前までに直接言うか、チャットアプリに連絡するルールだ。そうしたら黒恵は、相手に合わせたレシピを考える。相手の体質、状態、季節。そんなことを考えながら、薬膳の知識を実際の人間で試してみるのが、黒恵の趣味だ。 

 黒恵もお腹がぐうと鳴った。塩むすびみたいな大文字山を見ていたせいだろうか。いや、それだけではない、と黒恵は気づいた。お昼も朝も食べていない。夜更かししたり寝坊したり、自堕落な生活をしていたら、体の声を無視してしまっていた。 

「ぎゃあ、何これ!」 

 光世の悲鳴が上がった。リビングに何か大きなものが転がっていた。毛布の塊だ。その塊からニョキっと手が伸びて黒恵のスカートを掴んだ。 

「何か食べさせて……」 

 息も絶え絶えに言うのは、住人の漫画家、彩美(あやみ)だ。黒恵は傍らにしゃがんで、彩美の顔を覗きこむ。クマができて青白い。これは徹夜明けの顔だ。 

「彩美さん、いたんですか。年末年始は誰もいないと思っていたのに……」 

「締切で部屋から出る暇もなかった。夜中にトイレには行ったけど」 

「言ってくれたら、何か作ったのに……」 

「箸を持つ暇があったらペンを持つ。菓子パンなら左手で食べれるし」 

「それなら、おむすびを作ったのに」 

「……あ、その手があった」 

「とりあえず修羅場は過ぎたんですね。じゃあ、シャワーでも浴びて、あとは任せてください」 

 黒恵は彩美をお風呂へ送り出した。遭難者を救助するレスキュー隊のような気持ちだ。 

 さて、と気持ちを切り替えて、キッチンとダイニングを温めるために石油ファンヒーターをつける。深呼吸をする。冷蔵庫を開ける。 

(リゾート旅行帰りと、締切明けの漫画家と……あと年末年始を自堕落に過ごしたわたしに合う食材は……) 

 冷蔵庫を覗いてレシピを考える時間が、黒恵は大好きだった。相手が不健康なほど作り甲斐がある。 

 黒恵が薬膳の面白さに目覚めたのは、祖母の影響だ。薬膳なんて難しい言葉はずっと知らなかったが、目覚めたきっかけは祖母が「自分の体と話してみたら面白いよ」と言ったことだった。 

 五歳だった黒恵はさっそく丸めた筒を腹に当てて、もしもーしと呼びかけてから耳を筒に当ててみた。すると、ぎゅるぎゅると音が聞こえた。確かに面白かった。腹はその方法でできたけれど、胸から上は無理だった。手を当てたり、目をつむったり、どうやったら体と話せるかを試行錯誤した。ひとり遊びが好きな子どもだったから、飽きなかった。胸を触るとトクトク動くし、耳を塞ぐと頭の中でゴワゴワと音が鳴った。いろいろ話せる友達がたくさんできたような気持ちだった。そんな友達を元気づけたいと思ったら、祖母の語る薬膳の知識が抵抗もなく入っていった。いろいろな力を持つ食材たちもまた、友達のように思えた。性格や得意技が違う友達。どの食材が体にどんなふうに作用するのかは、誰と誰が仲良いかと考えるとすぐに覚えられた。 

 薬膳に夢中になる一方で、黒恵は人間の友達を作ることがなかなかできなかった。いや、人間の友達ができなかったから、薬膳の勉強に没頭していたのかもしれない。 

 黒恵にとって、学校は居心地の悪い場所だった。学校にいると、ざわざわして、うるさくて、忙しくて、体の声が聞こえなくなる。よく聞こうとして体の声に耳を澄ませていると、今度は周りの人たちの動きについていけなくなる。そんなことを繰り返しているうちに、黒恵の体は学校に行くことを嫌がるようになった。朝起きて、学校に行こうとすると下痢になってトイレから出られなくなる。ようやく出られても、頭が痛い。めまいもして、歩けない。 

 何で普通にできないの、と、母に何度も叱られたが、黒恵のほうこそ聞きたかった。何でわたしは他の人と同じことができないのか。黒恵の体は、その疑問に答えてはくれなかった。 

 一時間後、クロエ荘の食卓に湯気の立つ料理が並んだ。日本の冬にふさわしい半纏姿の光世と、シャワーを浴びて人間らしさを取り戻した彩美が食卓を見て、歓声をあげる。黒恵がささっと書いたお品書きも置いてある。メモのような走り書きだが、彩美はそれを恭しく両手で持って、中身を読み上げた。 

◎本日のまかない薬膳 

・黒米ごはん 

・具だくさん豚汁 

・菊花かぶ(クコの実を添えて) 

・くるみ入り田作り 

「さあ、いただきましょう」 

 黒恵が宣言すると、ふたりは飛びつくように食べ始める。黒恵も豚汁の椀を両手で包み込んで一口すする。暖かさが体に染み渡る。体が喜んでいるのがわかる。 

「あれやってよ、薬膳の講義」 

 口にごはんを頬張ったまま、彩美が言う。 

「講義っていうか、ただのオタク語りだけど……」 

「聞きたい聞きたい」 

 光世も煽る。 

 こほん、と咳払いして、黒恵は背筋を伸ばす。 

「まず、黒米ご飯。お米には疲労回復効果があるから、旅行で疲れた光世さんに。もちろん締切との戦いを終えた彩美さんにもいいと思う。そして、黒米には、目の疲れを癒したり、血のめぐりを促進したりする効能があって、眼精疲労や肩こりにもピッタリです」 

「漫画家のための食材!」 

 彩美が拍手する。 

「黒い食材は、腎を元気にしてくれます。アンチエイジング、老化防止の食べ物です!」 

「あらまあ、お気遣いありがとう」 

 光世がくすくす笑う。 

「あっ、老化防止って言うと、なんだかお年寄りの食べ物みたいだけど、腎を元気にすることは、子どもから大人までどの年代でも大切なことで、健康の基礎を養うことにも繋がるんです」 

 慌てて黒恵は説明を補う。黒恵や彩美と同じ三十代に見える光世だが、現在五十歳。このクロエ荘の住人の最年長だ。 

「やっぱり味噌汁飲むと、ほっとする」 

「うんうん、日本に帰ってきたって感じがするなあ。最高」 

 彩美と光世が頷き合う。 

「お味噌はお腹を温めて、胃腸の働きを活性化してくれます。豚肉は疲労回復に、ごぼうは便秘解消や更年期のめまいに、大根は消化促進に、サツマイモは疲労回復と便秘解消に」 

「ちょっと覚えられないけど、今のわたしたちにピッタリってことはわかった」 

 菊花かぶを箸でつまんだ光世は、花のような造形をしげしげと眺める。 

「かぶって、こんな切り方できるんだ。黒恵さん、器用ねえ」 

「案外簡単なんです。かぶは消化促進作用があるから、疲れた胃腸を労わってくれます。あとクコの実は彩美さんの眼精疲労に。そして、最後はくるみ入り田作り」 

 菊花かぶと田作りは正月に食べたくなると思って、年末に作っておいたものだ。役に立ってよかった、と黒恵は自分の目論見が当たって嬉しくなる。 

「ごまめもくるみもアンチエイジング食材です。あと脳を健康にする健脳効果もあるから、締切明けの疲れた頭にもどうぞ」 

「ありがたい!」 

「若返るー!」 

「以上!」 

 黒恵が宣言すると、拍手が起きた。黒恵の頬は緩む。薬膳の話をするのは、楽しい。そんな話をしているときは、「普通」の人みたいにうまく話せる気がする。 

「あっ! 忘れてた」 

 光世が、突然叫んだ。 

「何を?」 

 彩美が尋ねると、光世は箸を置いて姿勢を正した。 

「明けましておめでとうございます」 

「あっ!」 

 彩美も黒恵も箸を置いて、お辞儀をする。 

「明けましておめでとうございます」 

「本年もどうぞよろしくお願いします」 

 最後は全員のセリフが揃ったのがおかしくて、黒恵は笑った。今年もいい年になりそうだった。 

(第2話につづく)