寒竹泉美の日常
2025年1月から、日本くらし薬膳協会さんの会報誌「ISORROPIA」で短編小説の連載をさせてもらうことになりました。くらし薬膳というのは、身近な食事を通して健康になろうという薬膳の考え方。そんなくらし薬膳を普及させる協会の会報誌で連載をさせてもらうのだから、薬膳小説を書きたい。でも付け焼刃でできるものではない…と考えて、古くからの友人であり、くらし薬膳の主任講師である竹田あやこさんの協力を得て、共著で連載することになりました。
わたしが物語や登場人物を考えて、物語の状況や登場人物の体質にあった薬膳をあやこさんが考えてくれる。楽しく薬膳も学べる連載です。会報誌が1年に2回発行なので、ちょっとずつしか進みませんが、よかったらゆるゆるとお付き合いください。
日本くらし薬膳協会さんは、わたしが「ちょうどよいふたり」を連載させてもらっていた日本リフレクソロジスト認定機構さんと母体が同じなのですが、今回も会員しか読めない小説の転載を許可していただきました。感謝!
それでは、第1話どうぞ。
「クロエ荘のまかない薬膳」第一話 クロエ荘のお正月
寒竹泉美(小説)・竹田あやこ(薬膳監修)
大文字山にうっすらと雪が積もっていた。もう昼過ぎだからほとんど溶けてしまったのだろう。木の生えていない大の字の部分の三角形だけが白くなっている。
(塩むすびみたい……)
と、黒恵(くろえ)は思った。足指から凍える寒さでなければ、いつまでも眺めていたい光景だ。ダウンコートの襟を閉じる。今頃、京都の有名な神社は初詣の人たちで賑わっているのだろうが、クロエ荘の周りは人の気配がない。時が止まっているかのように静かだった。
ポストを空けてみるが入っているのは新聞だけで、年賀状はなかった。家に戻る前に、黒恵は一緒に新年を迎えたクロエ荘を眺め、心の中で挨拶をした。シェアハウス・クロエ荘。ここが黒恵の職場だ。祖母から受け継いだこの家に住み込んで、シェアハウスの管理人を務めている。
クロエ荘は瓦屋根に守られたどっしりとした日本家屋だ。築百年の貫禄は、ただそこにあるだけで、あたりの空気を塗り替える。クロエ荘を眺めていると、今が令和の世であることも、同級生たちが都会で忙しく働いたり、子育てに忙しかったり、恋愛で悩んだり、おしゃれを楽しんだりしていることも、すべて忘れさせてくれる。黒恵にとって、理想の場所だ。
静寂を破って、ガラガラとスーツケースを転がす音が近づいてくる。遠くからでも表情がわかるくっきりした目鼻立ちで、都会的なファッションに身を包み、ハイヒールを鳴らして歩いてくるのは、クロエ荘住人の光世(みつよ)だ。彼女は女手ひとつで娘を育て上げたシングルマザーだ。娘が一人暮らしを始めたのを機に、今まで住んでいた広いマンションや大きな家具を売り払い、身軽になってクロエ荘に入居した。年末年始は大学生になった娘とアジアのリゾートで過ごすと言っていたけれど、もう帰ってきたのだ。
「黒恵さん、まだ15時だけど、なんか食べさせてくれない? 乗り継ぎで食べ損ねちゃって」
いつもはエネルギーに溢れている光世だが、何だか覇気がない。
「ちょうど暇してたからいいですよ。娘さんとはもう解散したんですか?」
「バイトだって。タフすぎる」
「光世さんはおつかれですね」
「そうなの。歩き疲れたなあ。あと、香辛料のせいか、お腹が調子悪くて」
じゃあ、消化にいいご飯がいいかなあ……などと考えながら、黒恵は光世の荷物を持つのを手伝って、一緒にクロエ荘の中に入る。
クロエ荘では家賃とは別料金で、まかない薬膳を提供している。まかないが必要なときは二時間前までに直接言うか、チャットアプリに連絡するルールだ。そうしたら黒恵は、相手に合わせたレシピを考える。相手の体質、状態、季節。そんなことを考えながら、薬膳の知識を実際の人間で試してみるのが、黒恵の趣味だ。
黒恵もお腹がぐうと鳴った。塩むすびみたいな大文字山を見ていたせいだろうか。いや、それだけではない、と黒恵は気づいた。お昼も朝も食べていない。夜更かししたり寝坊したり、自堕落な生活をしていたら、体の声を無視してしまっていた。
「ぎゃあ、何これ!」
光世の悲鳴が上がった。リビングに何か大きなものが転がっていた。毛布の塊だ。その塊からニョキっと手が伸びて黒恵のスカートを掴んだ。
「何か食べさせて……」
息も絶え絶えに言うのは、住人の漫画家、彩美(あやみ)だ。黒恵は傍らにしゃがんで、彩美の顔を覗きこむ。クマができて青白い。これは徹夜明けの顔だ。
「彩美さん、いたんですか。年末年始は誰もいないと思っていたのに……」
「締切で部屋から出る暇もなかった。夜中にトイレには行ったけど」
「言ってくれたら、何か作ったのに……」
「箸を持つ暇があったらペンを持つ。菓子パンなら左手で食べれるし」
「それなら、おむすびを作ったのに」
「……あ、その手があった」
「とりあえず修羅場は過ぎたんですね。じゃあ、シャワーでも浴びて、あとは任せてください」
黒恵は彩美をお風呂へ送り出した。遭難者を救助するレスキュー隊のような気持ちだ。
さて、と気持ちを切り替えて、キッチンとダイニングを温めるために石油ファンヒーターをつける。深呼吸をする。冷蔵庫を開ける。
(リゾート旅行帰りと、締切明けの漫画家と……あと年末年始を自堕落に過ごしたわたしに合う食材は……)
冷蔵庫を覗いてレシピを考える時間が、黒恵は大好きだった。相手が不健康なほど作り甲斐がある。
黒恵が薬膳の面白さに目覚めたのは、祖母の影響だ。薬膳なんて難しい言葉はずっと知らなかったが、目覚めたきっかけは祖母が「自分の体と話してみたら面白いよ」と言ったことだった。
五歳だった黒恵はさっそく丸めた筒を腹に当てて、もしもーしと呼びかけてから耳を筒に当ててみた。すると、ぎゅるぎゅると音が聞こえた。確かに面白かった。腹はその方法でできたけれど、胸から上は無理だった。手を当てたり、目をつむったり、どうやったら体と話せるかを試行錯誤した。ひとり遊びが好きな子どもだったから、飽きなかった。胸を触るとトクトク動くし、耳を塞ぐと頭の中でゴワゴワと音が鳴った。いろいろ話せる友達がたくさんできたような気持ちだった。そんな友達を元気づけたいと思ったら、祖母の語る薬膳の知識が抵抗もなく入っていった。いろいろな力を持つ食材たちもまた、友達のように思えた。性格や得意技が違う友達。どの食材が体にどんなふうに作用するのかは、誰と誰が仲良いかと考えるとすぐに覚えられた。
薬膳に夢中になる一方で、黒恵は人間の友達を作ることがなかなかできなかった。いや、人間の友達ができなかったから、薬膳の勉強に没頭していたのかもしれない。
黒恵にとって、学校は居心地の悪い場所だった。学校にいると、ざわざわして、うるさくて、忙しくて、体の声が聞こえなくなる。よく聞こうとして体の声に耳を澄ませていると、今度は周りの人たちの動きについていけなくなる。そんなことを繰り返しているうちに、黒恵の体は学校に行くことを嫌がるようになった。朝起きて、学校に行こうとすると下痢になってトイレから出られなくなる。ようやく出られても、頭が痛い。めまいもして、歩けない。
何で普通にできないの、と、母に何度も叱られたが、黒恵のほうこそ聞きたかった。何でわたしは他の人と同じことができないのか。黒恵の体は、その疑問に答えてはくれなかった。
一時間後、クロエ荘の食卓に湯気の立つ料理が並んだ。日本の冬にふさわしい半纏姿の光世と、シャワーを浴びて人間らしさを取り戻した彩美が食卓を見て、歓声をあげる。黒恵がささっと書いたお品書きも置いてある。メモのような走り書きだが、彩美はそれを恭しく両手で持って、中身を読み上げた。
◎本日のまかない薬膳
・黒米ごはん
・具だくさん豚汁
・菊花かぶ(クコの実を添えて)
・くるみ入り田作り
「さあ、いただきましょう」
黒恵が宣言すると、ふたりは飛びつくように食べ始める。黒恵も豚汁の椀を両手で包み込んで一口すする。暖かさが体に染み渡る。体が喜んでいるのがわかる。
「あれやってよ、薬膳の講義」
口にごはんを頬張ったまま、彩美が言う。
「講義っていうか、ただのオタク語りだけど……」
「聞きたい聞きたい」
光世も煽る。
こほん、と咳払いして、黒恵は背筋を伸ばす。
「まず、黒米ご飯。お米には疲労回復効果があるから、旅行で疲れた光世さんに。もちろん締切との戦いを終えた彩美さんにもいいと思う。そして、黒米には、目の疲れを癒したり、血のめぐりを促進したりする効能があって、眼精疲労や肩こりにもピッタリです」
「漫画家のための食材!」
彩美が拍手する。
「黒い食材は、腎を元気にしてくれます。アンチエイジング、老化防止の食べ物です!」
「あらまあ、お気遣いありがとう」
光世がくすくす笑う。
「あっ、老化防止って言うと、なんだかお年寄りの食べ物みたいだけど、腎を元気にすることは、子どもから大人までどの年代でも大切なことで、健康の基礎を養うことにも繋がるんです」
慌てて黒恵は説明を補う。黒恵や彩美と同じ三十代に見える光世だが、現在五十歳。このクロエ荘の住人の最年長だ。
「やっぱり味噌汁飲むと、ほっとする」
「うんうん、日本に帰ってきたって感じがするなあ。最高」
彩美と光世が頷き合う。
「お味噌はお腹を温めて、胃腸の働きを活性化してくれます。豚肉は疲労回復に、ごぼうは便秘解消や更年期のめまいに、大根は消化促進に、サツマイモは疲労回復と便秘解消に」
「ちょっと覚えられないけど、今のわたしたちにピッタリってことはわかった」
菊花かぶを箸でつまんだ光世は、花のような造形をしげしげと眺める。
「かぶって、こんな切り方できるんだ。黒恵さん、器用ねえ」
「案外簡単なんです。かぶは消化促進作用があるから、疲れた胃腸を労わってくれます。あとクコの実は彩美さんの眼精疲労に。そして、最後はくるみ入り田作り」
菊花かぶと田作りは正月に食べたくなると思って、年末に作っておいたものだ。役に立ってよかった、と黒恵は自分の目論見が当たって嬉しくなる。
「ごまめもくるみもアンチエイジング食材です。あと脳を健康にする健脳効果もあるから、締切明けの疲れた頭にもどうぞ」
「ありがたい!」
「若返るー!」
「以上!」
黒恵が宣言すると、拍手が起きた。黒恵の頬は緩む。薬膳の話をするのは、楽しい。そんな話をしているときは、「普通」の人みたいにうまく話せる気がする。
「あっ! 忘れてた」
光世が、突然叫んだ。
「何を?」
彩美が尋ねると、光世は箸を置いて姿勢を正した。
「明けましておめでとうございます」
「あっ!」
彩美も黒恵も箸を置いて、お辞儀をする。
「明けましておめでとうございます」
「本年もどうぞよろしくお願いします」
最後は全員のセリフが揃ったのがおかしくて、黒恵は笑った。今年もいい年になりそうだった。
(つづく)
初出:くらし薬膳会報誌「ISORROPIA」2025 JANUARY No.1