寒竹泉美の日常
6回目、連載最後の京都新聞評が2025年5月8日(木)の朝刊に掲載されました。新聞でコラム連載だなんて、しかも新聞を読んで評価する新聞評だなんて、一体わたしにできるのか…と不安に思いながらも、記者さんに併走してもらって半年間駆け抜けました。
新聞だと思わぬ人から「読んだよ」と反響をもらえて嬉しかったけれど、何よりこの仕事を引き受けて良かったのは、新聞を読んで感じた想いをきちんと言葉に残せたことかもしれない。毎日のことだから、フッと琴線に引っかかってもそのまま忘れてしまう。でも新聞評を書かなくてはいけないから、なんとなく気になった記事には付箋を貼っておいた。書くときに見直して、なぜ気になったのかを言語化することができた。
XのようなSNSでは思ったこと感じたことをリアルタイムでつぶやいているけれど、そこに残せるのは表層的な、自分がくっきりと意識できる考えや想いだけだ。何となく引っかかったけれど何で引っかかったのかわからないようなことを、その後も覚えているためには、自分の心とじっくりと向き合って自問自答しなくてはならない。そして人に伝わるように書くためには、何度も何度も磨いてぼんやりとしていた想いをくっきりとさせなくてはならない。
そういうことをして、他人に届けるためのコラムなりエッセイなりを完成させると、「わたしはこういうことを感じていたのか」という、発見の驚きがある。しかもその驚きは時が経っても褪せることはなくて、数年後読み返しても、やっぱり、わたしはこんなことを考えていたのかと驚くことが多い。忘れっぽいのだと思う。でも、書いておけば忘れても思い出せる。心の奥底から掘り出してきた宝石のようなものだ。日常を過ごしているとどこかの片隅に転がって埃まみれになってしまうのだけど、また拾い上げて、磨けば光る。
では、最後のコラムをどうぞ。京都弁は京都生まれ京都育ちのライター仲間のなつみとさんに、ネイティブチェックしてもらったよ。
2025年5月8日 京都新聞 朝刊 許可を得て転載

(連載終了)